熊の棲む巨大山城
▲向羽黒山城全景
某年夏、満を持して会津を訪れたのは、郷里盛岡と違って、ネームバリューのある武将が何人も興亡の歴史を繰り広げた土地だったことも関係しています。時代を遡りながらざっと見てみると、まず戊辰戦争において、反幕府軍に降伏が許されず負け戦を強いられた松代容保、その260年前には、秀吉政権の中で中心的な人物になると言われながら秀吉から遠ざけられて悲嘆にくれた蒲生氏郷がいます。氏郷は、城下町整備に力を注ぎ、現在の会津若松市の原型を作りました。そのすぐ前の支配者は、乱世に遅れて現れたために、秀吉、家康を凌ぐことが出来ずに地方大名として終わった伊達政宗でした。更にその前は、会津を根拠地として中通りまで進出し、伊達政宗と並び称される戦国大名にまで成長した葦名盛氏がいます。今回の城郭探訪は、葦名氏の足跡を辿ることも、目的の一つでした。
無名の新人だった渡辺謙の出世作となったNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年放映)では、葦名氏は政宗の引き立て役でしかなく、滅亡する大名として描かれたために、今でも全国的には注目度が今一です。しかし、中世城郭探訪ファンとしては、葦名氏絶頂期の当主盛氏の隠居所として、彼が築かせた東北でも屈指の規模を誇る向羽黒山城を見る事は、長年温めて来た企画でした。なにせ、向羽黒山(標高408米)を中心として、羽黒山(同344米)等、複数の山で構成される独立連山群ともいうべき山塊を全て城域としたのですから、その規模に圧倒されます。
東北本線を北上して来たところで郡山駅にて磐越西線に乗換え、最初に降りたのが猪苗代駅でした。事前に調べていた駅前のレンタサイクル店に行きましたら、本格的なレンタサイクル店ではなく、中年の御夫婦が日銭稼ぎでやっているような素朴なお店でした。そんなもので、大型リュックを預けるのは憚られ、それを肩に担いだまま、ママチャリが軋むのも構わず、次の会津行きの電車が来る1時間半後に戻る為に、一路ブッ飛ばすことになりました。この後には、本格的な山城である向羽黒山城の攻略が控えているのです。
武名を高めた盛氏でしたが、死後に家督争いが長引いたために葦名氏は弱体化し、そこを付け込んで政宗は侵攻して来ました。そのせいもあって、離反者が現れます。この時、会津と中通りを繋ぐ道を扼する猪苗代城主猪苗代盛国は政宗に寝返って開城したために、黒川城(後の会津若松城)から政宗を迎え撃つために進撃して来た葦名勢と戦うための政宗の拠点となりました。
猪苗代城は、こぶりながらしっかりとした防御が施された城でした。大手口から城内に入ったところで、本丸に通じる登り道は左右に分かれて設けられており、そこを石垣の上から攻撃できるようにレイアウトされていましたし、本丸の周囲には深い空堀が巡らされて堅い守りになっていました。しかし、石垣を築く技術がこの地方に伝えられたのは蒲生氏郷入部以後であり、葦名、伊達政宗の時代に作られたものである筈はありません。しかも城は幕末に至るまで、会津から中通りに通じる街道の要衝として存続していたことから、ある時期に強固な改修がなされたと推測されます。
この城が再び歴史の表舞台に現れるのは、戊辰戦争の時でした。ただ、反幕府軍が近づいたとの報に、城代は戦うことなく城を焼き払って会津に退いています。政宗がここを拠点として会津攻めを成功させた故事が、城代の脳裏を過ったのかもしれませんが、数的に劣勢な会津軍の戦略的な撤退であった可能性もあります。
猪苗代城見学後、電車に乗ってすぐに左右の車窓の景色を注目していました。猪苗代駅西方のこの付近こそ、政宗の武勇を高めた摺上原古戦場だからです。但し、現在、車窓の右に見える小さな林の中に古戦場碑があるだけとのことだったので、敢えて訪れなかった次第です。この戦いは、2万3千の伊達勢と1万6千の葦名勢が衝突したのですが、葦名勢は政宗の南下に脅威を抱いた諸大名の連合勢力であったため、機に乗じて総攻撃に転じた伊達勢によって、葦名勢は寄せ集めの軍勢だっただけに簡単に瓦解し、葦名氏の会津支配はここに終りを告げます。会津を支配した最後の当主葦名盛重は、実兄佐竹義宣を頼って常陸に逃げ戻っています。
葦名氏を追い出して本拠を米沢城から黒川城に移した政宗でしたが、早くもその翌年には、小田原北条氏を屈服させた秀吉の命で、岩出山城(宮城県大崎市)に追われています。政宗が改易、切腹に至らなかったのは、秀吉に気に入れられるようなパフォーマンスがあった(死に装束で拝謁した)から、という有名な逸話が伝えられています。
会津若松駅に着いたところで直ちに只見線に乗り換え、次の目的地会津本郷駅に向かいました。駅に到着する直前、阿賀川の鉄橋を渡る時に、南方に聳える向羽黒山城が見えました。辺りを睥睨する威容を見た時、漸くここまで辿り着いた感慨から漲る気力を感じました。会津本郷駅は行政上、会津若松市に含まれるのですが、駅舎を出ると、たちまち会津美里町に入ります。まるで我が家のようで、思わず笑ってしまいました(自宅前の道路は盛岡市との境界なもので、家を出るとたちまち村を出てしまいますので、村外れに住んでいるようなものでした)。駅舎に着いてすぐに歩き始めましたが、炎天下のため、たちまち汗が吹き出て来ました。漸く見つけた公園の水飲み場で、空のペットボトルにポカリの粉を入れて注水、貧弱な兵站だけに簡単に即応態勢となりました。
城跡へ向かう通りを歩いていると、思いのほか焼き物の店が幾つも軒を連ねていました。それでここが、蒲生氏郷が築城のために瓦を焼かせたことから始まった会津本郷焼として知られる焼き物の町であることを知りました。会津藩の礎を築いた保科正之も薩摩から陶工を呼ぶなどしたこともあり、藩の庇護の下に繁栄して来たようです。
城跡に登る道を見つけたところで、左折して急な坂を上り出しました。と、カーブを曲がったところで、チェーンが張られて道路封鎖されていました。車の進入を禁止しているのか、気が利いているなと思いながら、ひょいと横を見たら、表示板が立っていました。見ると、クマ出没のため立入禁止、との注意書き。この時、すぐに脳裏をかすめたのが、前年、彦根市の町中にあるお寺の裏山に通じる道にロープを張って、熊出没のため立入禁止と掲げられていた看板でした。こんな車の激しい往来がある町中でクマが現れるとは到底思えず、裏山が石田三成ゆかりの佐和山城ですから、寺の正面から入らせて拝観料を取るための姑息な手段だと憤慨したことを思い出しました。金儲け主義に走るのは新興宗教が通り相場ですが、古刹ながら、ここも似たようなものだったようです。なお、都合により、ここを通り抜けたか否かはノーコメント。
向羽黒山城は人里に近い所にあるとはいえ、佐和山城を遥かに凌ぐ巨大な山城で、辺りは高く生い茂る夏草に囲まれていましたから、この立て看板を見ていたら、今にもクマが横合いから出て来そうな気配を感じてしまいました。しかし、遠路わざわざ早朝に千葉を発って来たのですから、すごすごと退散する訳には行きません。ということで、順法精神をモットーとして生きて来た前半生の経緯から、辺りに誰もいないのを確認すると、看板から顔を逸らし、遥か彼方の山を見ながらチェーンを一跨ぎ。これで、建前上、表示に気付かなかったことになり、勇躍登山を開始しました(律儀者or小心者かの判断は、趣味の問題かと?)。途中児童遊園らしき施設もあるので道は整備されており、舗装された広い無人の道を安心して歩くことが出来ました。これもクマのお蔭です。
と、前方の坂の途中に、公園の管理棟らしき建物の前で草刈りをしている人を視認。警戒モードをフルにして、淡々とその横を通過していたら、ちらっと視線をこちらに向けるものの、何も咎められることもなく通り過ぎました。こちらは防暑帽子にバックパックを担いで登山靴を履いている上に、城見学のためのファイルを手にしていましたから、クマの生息調査員に見えたのでしょう。多分?
それから更に登り続けたのですが、広い舗装道路がずっと続いているもので、どうも城跡を探訪している感じがしません。ということで、資料と照らし合わせてみると、右側の藪の中には廓が幾つもある筈なので、藪の中に入れば良いと思うものの、やはりクマさんの存在が気になり、仕方なく舗装道路をひたすら登ることにしました。角を曲がったところで、突然阿賀川を眼下に見下ろし、遠く会津若松市内を見通すことの出来る祠の前に辿り着きました。当然、人っ子一人いません。絶好の景観を独り占めしてから、気を取り直して再び上へと向かいました。
往時、盛氏の日常の生活に使われた二の丸に着いたところで、反対側には山頂のある本丸に続く道が見えたのですが、やはりクマの出現が気にかかり、残念ながらその訪問は断念しました。山頂までは完全な藪漕ぎになるのが目に見えているくらい、雑草が繁茂していたからです。広い平地となっている二の丸を見た後、同じ舗装道路を下ったのでは面白くないので、この直下にある筈の廓群を見ながら別ルートで下山することにしました。
しかし、すぐにその道も雑草が繁茂して藪漕ぎにとなってしまいました。これでは、クマとの遭遇のリスクが増すばかりなのですが、そこから広い舗装道路には出るためには、また急な階段を戻ることになるため、そのまま夏草が生い茂る曲がりくねった獣道を降りて行きました。勿論、捜索兵器(耳のこと)の感度を最高度にしたのですが、長年航空機用エンジンの整備を生業にして来ただけに難聴傾向にあるため性能は今一。ベトコンが隠れている森を通過するグリーンベレーの心境でした。漸く、先ほど見た管理棟の横に出たところで一安心。作業員の姿は、もうありませんでした。最初に越えたチェーンを、これまた目を瞑って越えた後、家並の中にあるバス停で会津若松行きのバスを待つことにしました。それまで、近くにあった自販機で缶ビールを購入し、暫し感慨に耽ることが出来ました。
そのほぼ1年後、新聞だけでなく、テレビも取り上げたニュースが流れました。
民家にクマが侵入 会津美里町
ここの看板は、邪教寺院のとは違って、こけおどしではありませんでした。私はたまたま熊が出払っていたときに城に登ったようです。それにしても強運(悪運?)でした。ということで、規則を無視する憎まれっ子だと分かりましたので、若干平均よりは現世に憚ることが出来ることが判明しました。
物事は、全てアクティヴに受取る事が、精神上宜しいそうです。
▲猪苗代城全景
▲向羽黒山城展望台
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