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12日 11月 2016

小幡城(茨城県茨城町)

強迫観念が産んだ迷宮

▲小幡城全景


 城は強迫観念の産物です。攻められても中に入られないように、と周囲に堀を作ります。しかし、堀を渡るためには橋が必要です。ということで、堀を作ると同時に架けた橋から敵に攻め込まれないように、橋に頑丈な門を設けます。しかし、この門が壊されたらどうしようと思いが至ると、門の内側を壁で囲んでしまいます。次にこの壁を乗り越えられたらどうしようという不安に駆られると、続いて城内の建物を強化します。という具合に、次から次へと襲われる強迫観念に駆られるままに作られたのが城という訳です。この強迫観念に対処する一つのアプローチとして、城自体を迷路にして侵入して来た敵を困惑させようという意図で作られたのが、小幡城です。城ですから、まさに迷宮です。

 地図で城の位置を確認した上で、国道6号線を北上しました。茨城町に入ってから、茨城東高校付近で涸沼方向に向かうと城が見える筈です。前方に小幡城と思しき森を見つけたところで、近くの空き地に車を停めて入り口探しに掛りました。土塁の切れ目のような所を見つけたので入ろうとしたら、連れの女性が「いやだ。怖い」と言って立ちすくんでしまいました。彼女の指さす地面を見ると、中に通じる土塁に挟まれた道の手前に、使い古された運動靴がきれいに揃えられていました。辺りを見回すも近くで働いている人どころか、誰も見当たりません。一瞬、背筋を冷気が走り、咄嗟に上を向いて首つり死体があるのではと探しましたが、幸いそれらしきものはありませんでした。城跡は鬱蒼とした立ち木で覆われていて、城内に通じる薄暗くて狭い道は、如何にも人を誘い込むような不気味な雰囲気が漂っていました。

 中に誰かいるんじゃない、帰ろう、と連れはたわ言を言い出しましたが、折角ここまで遥々やって来たのに、手ぶらで帰ることは出来ません。大丈夫だと言う空手形を出して、いざとなったらUボートの群れに襲われた船団を前にして、やむなく(何の迷いもなく)護衛を断念する駆逐艦長の心境になって、中に入ることにしました。手を差し出すもので、年に似合わず可愛気があるなと思って握り返すと、横顔はひきつったまま。置いてけぼりにされない(地獄へ道連れにする)ための保険だったようです。見捨てないでねという言葉を期待するも、置いてったら化けて出てやると言うので、カメラを持ち直す振りをして手を解くと、気を取り直して土塁に挟まれた空堀の中の道を奥へと向かいました。

 小幡城は、涸沼に注ぐ寛政川が作った狭い氾濫原に面する低い丘陵に作られています。往時、今より広大だった涸沼の水面が、この近くまで来ていたかもしれません。城の立地としては理想的な舌状台地上にあり、その頃は三方を湿地帯で囲まれていたようですが、現在、周囲は水田です。しかし、他の城と決定的に違うのは、丘陵上に城を造るのではなくて、丘陵内を掘り下げて深い空堀を縦横にめぐらしたことです。そんな独創的な発想で造られた城だったからなのか、城として機能しなくなった後は、木を伐採しても使い道のない所だったのでしょう、今日まで開発されずに残りました。近年、東関東自動車道の建設によって、外廓の一部が破壊されたのは惜しい限りです。

 ところで、昔の涸沼は広大な水域を誇りましたが、その南にある霞ケ浦(旧称香取の海)は海に繋がっている内水で、茨城県のほぼ南半分を占める広大な水域でした。今は内陸にある鹿島神宮や鹿島神宮ですが、元々は香取の海に面していましたし、石岡市にある常陸国府も香取の海の畔に設置されており、京からやって来る国司は船で直接ここに上陸していました。更に水域は筑波山の西にまで広がっており、南北朝の抗争に登場する関城(筑西市・旧関城町)、大宝城(下妻市)そして小田城(つくば市)は香取の海に面する城だったので、舟による戦いが起きています。時代が下って、北関東に進出して来た小田原北条氏の最前線の城の一つである逆井城(坂東市・旧猿島町)も広大な飯沼(香取の海の後退によって湖沼化)に面する水軍城とも言うべき城でした。なお、逆井城は、中世の姿のままに復元された城として知られており、一見の価値があります。

◀小幡城現地案内図:図の左側が台地と繋がっており、それ以外の三方は湿地帯

  迷宮の城と言ってもピンとこないと思いますので、現地に立てられていた案内板の写真を載せました。図の左手に大手口がありますので、そこから城内に入ると、空堀の中を歩くことになりますが、空堀を形成している土塁が高く築かれているので、まるで壁で囲まれた迷路内を歩いている感じになります。中に入って、ほんの少し歩いたところで角を曲がると、藪の中にいることもあって、連れの姿は突然消えてしまいました。敵(?)を振り切るのは今だと思って急な斜面を駆け登ると、土塁の上はやや低くなっており、敵に気付かれずに隠れることが出来ます。敵の頭が見えたので、思わず矢を射かけたくなりましたが、残念なことに持ち合わせていませんでした。城兵はここに隠れて敵を攻撃したようです。しかも、土塁上から左右の堀底道を通過する敵を攻撃できるようになっており、少ない人数で敵を頭上から攻撃出来るように工夫されていました。また、敵が頭上からの攻撃を回避するために早足で駆け続けると、自然に城外に出てしまう構造になっています。侵入した敵は、一瞬、狐に化かされたと思うかもしれません。そして、今度は少しずつ中に攻め入って行くと、手痛い反撃に遭う、ということになります。

 何度か空堀内を折れ曲がっては進みして、漸く本丸に入る虎口を見つけました。高い所にある訳ではなく、隠れるように四周を土塁に囲まれていました。このような発想によって湿地帯に突き出た要害の地に造られた城ですが、城としては狭すぎて縦深がありませんので、大軍を配置することは出来ません。したがって、在地小領主の城として築かれ、その後は城番が配置される城だったようです。最後にこの一帯を支配していた佐竹氏が、関ヶ原合戦において家康に敵対する動きを示したために秋田に改易された頃、廃城になったようです。

 城から出て来たら、最初に見つけた運動靴はそのまま、置いてありました。ひょっとして、律儀な近所の人が、捨てられた運動靴を忘れ物と思って並べたのかもしれません。振り切った筈の敵もしぶとく後ろから追撃して来ました。車に戻ろうとすると、ついて来てやったんだから、何か美味しいものを食べさせろと勝手な事を言い出す始末で、帰路はやむなく牛久のシャトーに入りました。私は運転するので飲めないというのに、目の前で美味しそうにビールを飲むもので、断腸の思いで帰宅することになりました。

 やはり城巡りは、一人でするものです。


tagPlaceholderカテゴリ: 大澤邦雄の中世城郭探訪

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