2014年のFIFAワールドカップ、2016年のオリンピックで、ブラジルという国がだいぶ身近に感じられるようになりました。1908年に第一回ブラジル移民が笠戸丸で海を渡ってから100年以上になりますが、戦前戦後を合わせ約27万人の日本人がブラジル移民となっています。1990年以降は逆にブラジルから出稼ぎとして27万人以上が日本に来ています。二世、三世の日系ブラジル人は日本の同胞でありながら、言葉の壁や生活習慣の違いなどから、日本で大変な苦労を強いられてきました。そんな彼らを支援し、心の支えとなってきたのが高野光雄さんとそのご家族です。自らブラジル移民として海を渡り、日本に戻ってからは日本とブラジルとの架け橋として、生涯を懸けて両国の人たちの共生、日系ブラジル人の生活の改善に取り組んできました。その波乱に満ちた人生の軌跡に迫ります。
高野光雄さん 80歳
1936年福島県南相馬市生まれ。1960年に不景気な日本から一獲千金を夢みて、二人の兄夫婦と共に5人でブラジルに移住。移住先での苦労は想像を絶するものでしたが、持ち前のバイタリティーで道を切り開いていきました。
1989年30年ぶりに帰国し、大泉町の企業に勤務。その後は日系ブラジル人のため日伯センターを設立し、ブラジル人の駆け込み寺として、仕事や生活上の数々の悩みに対応してきました。
言葉や習慣が違う人たちが互いにうまく暮らすには、お互いを理解し合う努力が必要。日伯両国で生活経験のある自分のようなUターン組は、仲介役をする責任があるとの考えからでした。
その後、家族とともにNPO大泉国際教育技術普及センター、日伯学園、大泉日伯センターを設立し、日系ブラジル人の語学教育、就労支援、文化交流事業など様々な活動を行っています。
高野さんには三つの故郷があります。一つ目は、24歳でブラジルに農業移民するまで暮らした故郷の福島県南相馬市。二つ目は、移民として30年間暮らしたブラジル。三つめは、帰国後の生活拠点である群馬県邑楽郡大泉郡町です。それぞれの地への思いは強く、今も様々な関りを持ち続けています。
サッカー好きのブラジルの子のために大泉町の日伯学園の運動場に、二面人工芝のフットサル場を作りました。ブラジルで30年暮らした自らも大のサッカー好き。FIFAワールドカップでは、ブラジルが4位、日本はいいところなくグループリーグ敗退でしたが、ワールドカップでブラジルと日本が決勝対決する日を心待ちにしています。ザスパ草津群馬がJ1に昇格し、本拠地が東毛地区に移って来るのが夢だそうです。
2002年南相馬市サッカー協会と南相馬市国際交流協会の招待を受けて東日本大震災の前年まで日伯学園の中学生のサッカー選手を連れて南相馬市長杯少年サッカー大会に参加しました。震災後は、多くの少年が避難先から戻らないので中断されています。
もう一つ、ブラジルといえばサンバ。1991年、東毛地区雇用安定促進協議会(雇安協)が主催者となり、大泉町の夏祭りでサンバパレードを始めました。異国の地で寂しい思いをしているブラジル人のために、ワイワイ騒げる故郷の祭りをやったらどうだろうとの考えからでした。その後事情があってサンバパレードは行われなくなりましたが、商工会の中に大泉観光協会を設立し、ブラジルサンバを独自にアレンジした大泉サンバが、毎年盛大に行われています。
救急車、パトカー、消防車のサイレンが鳴ると、高野さんは異常に緊張するそうです。言葉の分からないブラジル人が事故に巻き込まれ戸惑っているのではないか、あるいは何か事件を起こしたのではないかと。ブラジル人が事件を起こすことは、日系社会全体の信用を損ねることになります。
1990年代半ばから、様々な犯罪にかかわる未就園児や不登校児が社会問題となってきました。出稼ぎに来たブラジル人たちは、少し資本ができると家族を連れて本国に帰国し、投資に失敗しては再度来日するということを繰り返していました。人生で一番大事な自己形成期に、親の都合で浮草のような生活を強いられ、日本語もポルトガル語も満足に話せず、居場所を失っている子どもたち。両親が出稼ぎであることから、極端に親との接触が少なく、子どもたちは愛情に飢えていたし、親が教育をしていないので自分で物事を判断する能力を身に付けることができなかったのです。
当時、南米から大泉町へ向かう出稼ぎの家族連れが増えていまいた。町内の小中学校では、外国人の生徒が増加の一途をたどり、日伯センターにも子どもに関する相談が多く持ちかけられたといいます。「学校でいじめにあった」「授業についていけない」「不良グループに引きこまれた」などなど。 当時は非行で補導されるブラジル少年は後を絶たず、地元の学校に入ったものの日本語の授業についていけず、次第に足を向けなくなって非行へと走るという悪循環だったのです。
日本で暮らすなら、日本語を使いこなさなければ。でも、学校に溶け込むために日本語を話そうと心掛けると、ポルトガル語を忘れてしまいます。母国語ができなければ、豊かなブラジル文化も引き継げない。光男さんと妻の祥子さんは1996年、日伯センター近くの空き店舗を借りてブラジル人学校を開設し、「エスコリーニャ・ド・セントロ・ニッポ・ブラジレイロ(日伯の小さな学校)と名付けました。
日本の学校に通いながら、週末や放課後にポルトガル語を学びます。日本語学習の難しさから挫折する子が多いので町に働きかけて支援も仰ぎました。町や企業が学校を支援するための受け皿としてNPO大泉国際教育技術普及センターが設立され祥子さんが理事につくことに。ところが当時支援してくれていた町長が選挙で破れると、町が支援するブラジル人学校の構想が消えてしまったのです。2002年に、日伯学園と改称し、自力で経営に乗り出すことになります。
外国人学校の経営は苦労の連続です。最大の問題は資金。日本の法律で学校とは認められないので、国や自治体による財政支援を受けられません。施設や教員の給与をすべて月謝で賄わなければなりません。生徒が200人を超え軌道にのり始めた2008年、リーマンショックが襲います。父母が解雇され、学費を払えずに学校を去った生徒も多数いたといいます。
日伯学園は2歳から高校三年生まで、90人が通います。苦しいけれど、投げ出すわけにはいきません。ブラジルと日本の両国に足場をおいて生きてほしいから、日本語とポルトガル語の両方を教えます。高野さん夫婦には、まだ数少ないバイリンガル人材を育てる、その舞台が日伯学園だとの自負があります。ブラジルの文化を受け継ぐ子供どもたちは、多様な日本社会を作っていく可能性があります。日系ブラジル人の子どもたちは、日伯の架け橋となる財産だと光雄さんも祥子さんも考えています。
NPO大泉国際教育技術普及センターの長年にわたるブラジル人の子どもたちへの支援活動が認められて、2008年には国際交流基金より地球市民賞が贈られました。
高野さんが兄弟らと1960年にあふりか丸でブラジルに渡ってみると、入植地での生活は、当初説明を受けていた海外協会連合会の契約内容とは大きく違うものでした。
快適な新築の住宅、二軒に一軒の割合で備えられた井戸、1ヵ月で日本のサラリーマンの月給の10倍は稼げるなどなど、全くの嘘。あてがわれた住居は低地の川沿いに建てられたバラックで、土間にトウモロコシの皮を敷いて寝床にしたそうです。食料や生活必需品は農園主が立て替えてくれますが、その分を差し引くと手許に全くお金が残らない。騙されたと夜逃げをする人も少なくなかったようです。
劣悪な環境の中でついに病気になり、ここから逃げ出さなければと、交渉の末に入植したコーヒー農園を離れます。その後、ブラジル各地を転々とし、綿花の栽培、養鶏、大豆栽培、養豚、日本のトマト栽培、食品店、レストラン経営等々20近くの職業に携わったといいます。
めまぐるしく変わる職歴を、高野さんはブラジル流の生き方と表現します。ブラジル人は何事に対してもチャレンジ精神が旺盛で、自分で道を切り開こうとする。農業も商売もある意味ギャンブルなので、引き際が肝要といいます。最初に入植したコーヒー園では文無し暮らしを強いられ、赤痢で家族全員が倒れた。あの時、このままでは生き残れないと逃げ出してよかったのだといいます。簡単に諦めず、苦労しても事業を成し遂げることを美徳と考える日本人には、難しい判断かもしれませんが。
高野さんは移住から30年を経た1989年に、夫婦で再び日本の土を踏みます。当時日本はバブル景気。大泉町では、働き手不足の中小企業が労働力を確保するために、南米から日系人を誘致したのです。高野さん夫妻も大泉町に住み、近くの工場でエアコンの基盤を組み立てる仕事を始めました。
日系ブラジル人の中には日本語をほとんど話せない二世や三世もいました。「日系人なのに、指示を理解できないのか、馬鹿野郎」と工場で怒鳴られる同僚を目にするたびに、祥子さんの心は痛みました。ブラジル人は工場など人の前で叱られることを嫌います。ましてや「馬鹿野郎」などとは。初期の出稼ぎには高い教育を受けた人が多く、ブラジルで医師や弁護士、銀行印、大手企業の社員だった人も珍しくありませんでした。彼らは慣れない肉体労働と屈辱的な体験に耐えかねていたのです。
祥子さんは日本語の必要性を痛感し、工場で使われる言葉だけでも理解させようと社員食堂の一角を使わせてもらえるように会社に掛け合いましたが、色よい返事をもらえなかったそうです。当時は、給料のピンハネも横行していたといいます。ブラジル人に対する理不尽な扱いに失望し、夫婦は一時この町を離れることになります。
高野さん夫婦が大泉を離れてからほどなく、日本の外国人政策が大きく変わります。出入国管理法及び難民認定法が改められ、日系二世三世と配偶者が日本に定住する資格が与えられたのです。これを機に労働力不足にあえいでいた大泉町では、当時の町長が経営者たちに呼びかけて、町の経済を支える労働力として南米の日系人を誘致するために「東毛地区雇用安定促進協議会」(雇安協)が設立されました。雇用契約が整備され、国民健康保険への加入や、小中学校の一部には日本語教室も設けられました。
高野さんは、大泉町の社長から雇安協を手伝ってくれと呼び戻され、2年ぶりに大泉町に戻ってくることになります。かつて日本語を理解できず苦労する同僚たちを目にしてきた経験から、このとき祥子さんは日本語学校を開きます。東京で旅行会社に勤めていた三女のみどりさんを呼び寄せ、2人で教え始めます。事務所の一角を仕切って翻訳、通訳や書類作成の代行も引き受けました。そして「日伯センター」の看板を掲げ、ブラジルの食糧販売やブラジル人向けビデオのレンタルなど、ブラジル人に必要とされるものは何でも揃えたといいます。これが日伯センターの始まりで、光雄さんも後にセンター経営に専従するようになります。
2000年には、業務を分割するために会社を(有)日伯センターと(有)大泉日伯センターに分けます。日伯センターでは企業の構内業務請負、それ以外の在留期間の更新、生活相談、保険や住宅購入、ブラジル人学校の運営、フットサル場の運営などもろもろの業務は大泉日伯センターが担います。いずれも高野家が一丸となって運営にあたってきました。三女のみどりさん以外は出稼ぎ以前から日本に留学にしていたため、貴重な戦力となったのです。 現在長女の戸澤江梨香さんが、日伯間の貿易、フットサル部門責任者を、次女の西本真理香さんが日伯学園幼児クラス(2才~5才)を、三女井上みどりさんが日伯学園園長を務めています。長男の高野光太郎さんも、大泉日伯センター設立当時2年ぐらいは翻訳・通訳の手伝いをしていましたが、現在はさいたま市でい級建築士として建築業を営んでいます。
高野さんは入植地ブラジルで祥子さんと結婚し、一男三女の子宝に恵まれています。
ブラジルにおいて4人の子どもたちは、朝はブラジルの現地学校へ、午後に日本人学校へ通っていました。週末には日本太鼓や踊りの稽古に励んだといいます。子どもたちの学費を稼ぐために必死で働いたといいますが、そこまでしてでも日本とブラジルの言葉、文化の両方を身につけさせたかったのです。
ブラジルは多民族、多文化の国だからこそ、出身文化を大切にします。光男さんと祥子さんも、日本語もポルトガル語も話せるからずいぶん得をしたと感じています。子どもにも同じようにと考えたのです。
バイリンガル人材に育った4人は、両国の架け橋として、直接、間接に日伯センターの仕事を手伝ってくれています。
ブラジル人はチャレンジ精神が旺盛で、とにかくやってみる。総商人気質で、ちょっと気が利いた人は商売をやるのが当たり前です。子どもですら、小さいころからいくばくかのお金を稼ぐために外に出て働く。
出稼ぎに来てある程度元手ができると、あまり先のことは考えずにあれこれ手を出してしまいます。おおらかではあるけれど、ルーズに通じるところがあるかもしれません。
日本とは違い、個人があって会社がある。ブラジル人は会社のために働いてやっているという考えが先行するので、会社に「お世話になっているとい」う感覚がない。この根本的な考え方のずれゆえに、共生の難しさがあります。ブラジルは多民族国家なので、共生・共生といわなくても生まれたときから共生の中にあるともいえますが。
ブラジルにおいて日系人はジャポネース・ガランチードと呼ばれ、勤勉、誠実、時間に正確ということで大きな信頼を得ています。そのガランチードが出稼ぎという形で大勢日本に来ている。その子弟にしっかりとした教育の場をつくることが、将来きっと両国のためになると考えています。公立のブラジル人学校開校を含め、もっとしっかりした組織で援護しなければならないと感じています。
「ブラジル政府が我々のようなブラジル移民とその子弟の面倒を見てくれたように、日本政府が日本に来ている日系人の面倒を見るべきだ」と高野さんは言います。彼らは日本人の親せき。日系ブラジル人は、先祖が貧しい時代にブラジルに渡った人たちで、日本もつい最近まで貧しかったのだということを忘れてはいけないのです。
高野光雄さんへのメッセージを募集しています。